わたしは泣けなかったから病気になった 

先日乳がんの精密検査としてMRI検査を受けました。

 

MRIを受けるのは初めてで、うつぶせになったまま30分動いてはいけないと言われ、ヘッドフォンをしていても耳障りな音が続き、ストレスに感じていました。

 

けれども、だんだんそれに慣れ音が遠くの方で聞こえるようになり、磁気による熱を感じるようになった頃、次第に目、それも主に右目から涙があふれてきました。

 

最近辛かったこと、先日のキネシオロジーのセッションで気づいた子ども時代に辛かったこと、いろいろなことが思い浮かんで、検査が終了するまでずっと涙が止まりませんでした。

 

キネシオロジーのセッションでも途中でセラピストの方に胸に手を当てていただいたところ、押されているわけでもないのに大きな圧迫感を感じ、悲しみや苦しみをずっと胸にしまい込んでいたことを感じたばかりでしたが、それを裏付けるかのように、悲しみが次から次へと溢れてきたのでした。

 

私は春からの試練の中で何度となく苦しいと思っていたけれど、悲しくて涙を流したことはたった一度だけ、でももっともっと泣きたかったのだと思いました。

 

昨日、「クリエイティブビジョン」のコースで「リパタニング」という深い内容のセッションについて学びました。

 

「リパタニング(Repatterning)」とは、長い間形成され強化されてきたその人固有のパターンに働きかけるもので、目を動かしたりしながらクロスクロール(対側の手足をつなげる運動)と同側クロール(同じ側の手足をゆっくり動かす)を行っていくものです。

 

このような深いセッションをするに当たり、今まで変えようと思ってもなかなか変えられないことを目標として設定することになりました。

 

運動をする前にまず、各自のパターンを知るために、様々な項目、主に幼児期に形成される反射的な反応についてどのような状態であるか確認します。

 

そうすると、目で見ること、耳で聞くこと、口を動かすこと、からだを動かすこと、それだけでなく、食べる・消化する・排泄する・呼吸する・休む・楽しむ、など、心とからだに取って大切なあらゆること、すべてが私にとってストレスであったのでした。

 

つまり、見ることにストレスを感じる=目は常に見開かれ、涙を流さない、聞くことにストレスを感じる=何かに集中すると耳に入ってこない、口を開けることにストレスを感じる=あくびをしない、話さない、からだを動かすことにストレスを感じる=じっとして動かない、固まる、というように、からだにとって良くないと思われることが自分にとって慣れ親しんだ標準パターンになっている、ということでした。

 

どんなにそれが負担の大きいものであっても、からだは置かれた環境に順応しようとする性質があるので、普段意識することもなく、そのように生きています。

 

そして、それを変えようとすることは、とても勇気が必要で、ストレスのかかることなのです。

 

そう考えると、前回のブログで書いたような、自分にとって苦しいことを自ら選んでしまうことや、苦しくても頑張り続けてしまうことが当たり前のパターンになっていて、心でどう考えていてもそれを選ぶことは当然のようになっているのだな、と深く納得しました。

 

だからわたしは辛くても涙が流せずに、からだにしまい込むしかなかった、そしてその気持ちを十分に感じることなくただ耐えていたのだな、その結果が病気になってあらわれたのだな、と思いました。

 

今回のコースで集まった生徒は世界各地から時差によって朝参加、昼参加、夜参加とさまざまで、それぞれが自分にとって大きな目標を設定しました。

 

そのテーマはそれぞれ違うけれど、各自にとってそれに立ち向かうことは大きなストレスで、目標を決めてから集中できなかったり、何となくやる気が出なかったりというような心境に全員が陥りました。

 

けれども、全員で同じ動きをしていくうちに、何かが吹っ切れたようなさわやかな気持ちに変わっていきました。

 

このセッションだけですべてが変わるというわけではなく、その後実生活の中で少しずつ新しいパターンに馴染んでいく過程で、また元のパターンに戻ってしまうこともあるようで、希望を持って気長に進んでいきましょう、と最後に先生が締めくくってくださいました。

 

けれども、自分にとって怖く負担の大きなテーマを仲間と共に乗り越えようとすることは、とても心強く、素晴らしい機会だなと思いました。

 

何かを無理に変えようとする必要はないけれど、変えたいと思った時、今までと違うやり方で取り組んでみたいと思った時、励まし合い支え合いながらからだを動かして一歩ずつ前に進んでいく、それがブレインジムなのだと思いました。