先週末、神奈川県立近代美術館へ、内藤礼さんの個展を見に行きました。直島や豊島の美術館で大きな作品を作られた方です。
「すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」この、詩のようなタイトルに惹かれたのですが、展示室に入ってびっくり、中はがらんとした空間に小さな展示物が10点ほどあるのみでした。
部屋には海が臨める横長の窓があって、そこから差し込む光によって毎日展示物や空間の見え方が変わるそうです。
その日は晴れていたけれど、冬の光は強くないためか室内はそれほど明るくもなく、これは何なのだろう、と思いながら一旦部屋を出ました。
その後入口にあった説明文を読み、この展示の深い意味を知ったのでした。
内藤礼さんの作品のテーマである「地上の生は、それ自体祝福であるのか」を表現すべく、「生の光景」が極限までシンプルに表現されていたのです。
作品のタイトルは「恩寵」「精霊」など、宗教的なタイトルが多く、「これから生まれてくる人たち、先に逝った人たちの眼差しを持つ」という生と死の循環のようなものが表現されています。
部屋の中央にはビーズが連なった糸が天井から吊り下げられています。
この一つ一つのビーズが先人たちのまなざしなのでしょうか。あるいは広い空間の中にその目は存在するのでしょうか。
私たちはその広い空間の中で鑑賞することによって、自分たちがただ存在して、全体の一部を構成していることに気づきます。
そして私たちが存在する前にたくさんの尊い命があって、生をバトンタッチされていることに気づきます。
この作品をどう感じ、理解するかはそれぞれの鑑賞者に委ねられているのでしょうが、私は空間を見て感じる、という斬新な作品に、このところ集中して取り組んでいるブレインジムの「クリエイティブビジョン」の観点から感じるところがありました。
「クリエイティブビジョン」のセッションの中で、奥行きを感じる、周辺視野を感じる、というチェック項目があります。
これを私は、パソコンばかり見ないで遠くを見るとか、道を歩いていたら前だけではなく周りにも気を付ける、というような意味合いでとらえていたのですが、この空間という作品を見て感じることにより、「見る」ということはもっともっと深い意味があるのかもしれない、と思いました。
私たちは普段目をどのように使っているでしょう。
私はただ、目の前にあるものをとらえて要・不要を判断するための、生活や仕事をする上でのジャッジの手段になってしまっていることに気づきました。
しかし、内藤礼さんは、自然界に生きる動物がそうであるように、ただその世界を見て受け止めることの大切さ、そこにただ在ることの幸せを説いていらっしゃいます。
内藤礼さんの言葉を以下、引用します。
「私は作品をつくるうえで、「人間は何をどこまでしてよいのか」というのは、すごく考えます。
その場所に元々あるのに、なんらかの理由で人間が感じ取りにくくなっている。
例えば光が入ってきているのに、その素晴らしさに気づけないとしたら、それは何か理由があるんです。
私の作品は、その場所をつくり替えるというよりは、何か最小限のものをそこに置くことによって、元々そこにあったよいものが顕れてくるように、というものです。
すでに地上に私たちが与えられているもの。風であったり、光であったり、水であったり、そう、生命もです」
空間を見て感じて、見えるものも見えないものも受け入れること、そういう視点を持つことは、そこにいる自分の存在も丸ごと受け入れること。
そうすることで既にあるものに気づき、広い世界につながれるようになるのだな、目の使い方は本当に無限で、自分自身を広げてくれるものなんだな、と思いました。